形式を分離して、その内容や意味を理=ことわりにまで解釈し、さらにそれを解説する力を自分の内面にまで取り込むことを意味する。敬虔な態度を持って神の存在を信用し信頼することを「理解」賭していたことに由来している。そして、神から人間へと、単なる対象物への理解に止まらず、他人の気持ちや、その人の立場を思いやるということにまで繋がっている。神学的な意味合いから自然科学、精神科学にまで理解という認識は拡大したのである。M.ウェーバーは社会学的に、理解的方法は現象の説明手法として最も有力な方法であるとした。その後、さらに理解を定義付けしたのはハイデガーである。彼は、方法論的な次元ではなくて、実存=リアリズムとしての存在の明証という次元までに、この定義を深めた。ここから、現象学的社会学、つまり社会現象の相互作用論として、ガーフィンケルによるエスノメソドロジーという研究プロセスの方法論が生み出された。
デザインに対する理解は未だに、客観的かつ理性的なものになっていない。現状は、生産と消費の資本主義的な構造のなかでのみ、デザインへの理解が成立していると考えられる。この状況を変えるためには、エソノメソドロジー的な理解プロセスそのものを1つのデザイン手法とすることによるデザイン表現の創出が必要であることは間違いない。例えば、グッドデザインの評価は、最初は主観的な意識によってその理解を図るが、その主観的な理解を議論に持ち込むことで、客観的な理解の対象として評価が可能となる。これが現在においてのデザインの評価となっている。ところが、デザインの本質については、こうした評価軸がありながらも、客観的な理解にはいたっていない。これが、デザインにとって大きな問題であることは間違いない。デザインとはユーザーの価値観や立場、使い勝手の理解によって決定されるプロセスそのものであるとすることによって、真のデザインの理解へと導くことが出来ると確信している。