何かを欲しがるという「要求」と同意語と考えていいだろう。しかし、この言葉の定義は定まっていない。要求と同一だとすれば、社会学的には次の3つにわけて解説できる。まず、生活体系が求めるものや、その条件が欠落していることによって、生活体系の均衡状態や緊張関係を保全するために、人間が行動を起こす動因や動機ということである。この場合はneedという訳語と同一と見なすことができる。次に、要求と欠乏を明確に区分し、その統合化がwantとなり、これを欲求とするということである。これは生得的な必要性への不足感であり、後天的には不足感による欠乏という緊張を意味している。飢餓や渇きのような生理的なものから、好奇心や探求心などの内因的なもの、さらに、社会的なものの例示が可能である。米国の心理学者、H.A.マレーはこれらを6つのカテゴリーに属する28の心因的要求とし、ほとんどが社会性や自我性、自己啓発性にもとづく要求であるとした。3つ目は。有害性や不快性への嫌悪に対して、必要かつ有益なことを考えるappetiteが欲求であるという、主観的な目標への達成意欲である。
こうした欲求、あるいは要求が、人間の本能に根ざしたものであるとしたのはフロイトによる精神分析的概念であった。そこでは、本能と欲動からの欲求があり、欲動とは、生物学的に備わっている本能とは違い、意識的な体験であるとしている。この解釈には、賛否両論あったものの、欲動を4つに分別したことに意義があったのではないかと考えられる。まず原欲動(urtrieb)が存在し、これには自我欲動(ichtrieb)と性欲動(sexualtrieb)があるとした。やがてこれらは、生への欲動(lebenstrieb)と死への欲動(todestrieb)へと繋がり、これらが人間にとって基本的なものであるという結論であった。この結論が今も論議の対象となっているが、ともかく、欲求とは、本能と欲動の境界での心的な意識であるという見方が一般的である。
デザインにおいては、その本質や正当性が、欲動や欲望、欲求、要求との関係の中で語られなければならない。なぜなら、市場での生産と消費において、欲求が何であり、それへの最適化をいかに図るかという境界線上に、デザインの本質があるからである。