この言葉が、杜会制度や国家形式に対して要求している内容は、今やあまりにも拡大している。そのため定義が多様になりすぎることで、元来の意味が希薄となり、ある種の定義の混乱が見られる言葉、あるいは用語である。本来は「すべての杜会構成員の幸福」と同義である。「福」とは、東洋的には神が壷に食物や財宝をいっぱいに持っているという形象であり、「祉」とは、神の歩いた足跡を意味している.そして、福祉という言葉は、神(まつりごとの為政者というシンボルに転化できる)が、幸福の源となる豊富な食物や財宝を戸口に置いて帰った、という物語から生まれたのである。現在のいわゆる福祉=welfareの原義も、きわめて上記に近い。原語となるwelfareという中世英語は、「良い」あるいは「旅、到着」を意味するwellと、「食料の供給」を意味するfareからなり、welfareには「汝の隣人の富」という博愛思想の意味が込められていしそして、現代的な定義が確立されたのは、第二次大戦中の1939年のことであり、独裁国家に対抗する平和的で民主的な福祉国家という対立概念語に由米している。特に、90年代初頭の東西対立の崩壊後、福祉政策は吐界的に組織的保護論として捉えられ、擁護されるようになったが、実はこれは先進国家の政治指導者たちからは敬遠されていると見なすべきだろう。そのことが、代替としてのユニバーサルデザインやエコロジーデザインという、デザインの本質を浮かび上がらせることにも繋がっているのである。例えば、地球温暖化防止を謳った京都議定書は、福祉政策の国際的協調合意事項であるが、それが無視されていることこそ、福祉国家対軍事国家の構図がいまだに残存していることを証拠立てている。福祉思想の根幹である「生存権の持続性の保障」は、各国の憲法思想の1つになっていることは明白であるにもかかわらず、空白の理想となっている。こうしたことからも、全世界が幸福であることを希求する理想主義は、福祉政策や福祉ボランティア、福祉事業だけで語り切れるものではない。デザイン界が目指すべきことは、社会指標の1つである「福祉指標」の、世界的な評価の確認、あるいは指標の確立や情報開示のための、デザイン戦略の提示である。