フランス語で「新しい波」を意味する。50年代後半から60年代にかけての映画界における新しい映像表現の運動や流行などを指す言葉である。特に、フランスを中心として、フランソワ・トリュフォーの「大人はわかってくれない」(1959)や、ジャン=リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」(1959)が、その代表作と言われている。このふたりはともに映画評論家としてキャリアをスタートしたが、同人誌『カイエ・デュ・シネマ』で斬新な批判精神による新たな映画言語の展開を試みると同時に、アルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスなどを映画作家として再発見することなどで、彼らふたりには共通の映画表現の手法が確立されていった。それは従来の芸術的映画と呼ばれるものを、半面では否定し、ストーリー性の打破や破壊を目指し、現実を直視する生々しい言語や身振りの発見を映像に取り上げるという手法になっていった。特に、ドキュメンタリー的な手法によって同時進行的な発展をしていくシナリオという発想は、以後の映画のなかの空間までを決定的に変化させたという評価になっている。 こうした先鋭的な表現姿勢は、当然ながら政治的転換を迫られざるを得ない状況にまで進行することになり、1968年のパリ革命を機にこの連帯的な映画運動は終止符を打つことになった。が、今なお映像表現や手法に大きな影響を残していると言っていいだろう。わが国にもこの手法は、日本的なヌーベルバーグとなって継承された。特に、政治や社会風潮批判のドキュメンタリー的な映像表現の映画手法として確立されていくことになる。 さて、映像デザインにとって、この歴史的コンテクストをどうとらえるかは、1つの問題でありテーマではないかと推察できる。とりわけ、映像デザインは、これまでのようなアナログ的な制作ではなく、デジタル技術によって進化している。つまり、「形式」としての新たな技術的進化に対して、「内容」としての新しい映像のデザイン手法、あるいは哲学が必要であるとすれば、この運動のなかに示唆される要素が多々含まれているのではないかと考える。