デザインが付加価値論で語られるとき、常套的に使用される言葉である。例えば、「デザインによる商品(存在性)の差別化」という言い方は、煩雑かつ頻繁に飛び交う。しかし、この差別化を目指すデザインというのは、デザインという理想主義を具現化する手法の本質では、まったく間違った用法であったと反省と自戒をすべき事項だと提言しておきたい。万一、デザインによって、デザインされた対象に明確な存在性を主張させるならば。「差異化」という言葉を用いるべきである。ある物がそのものとして存立している場合、同一性か差異化かという対立概念での判断が求められる。ところが、差別化というのは、対立が明確であったり、何かと対立することで、その異なり様が同一性を破壊し、階級的な位相性を区別するだけでなく、程度・レベルにおける差別感を強調するわけになるわけだ。 したがって、とりわけ商品をデザインで差別化するということは、デザインの意図や表現において、そのデザインを使用したり利用したり運用する人間を区分したり、区分するだけでなく、明確に階級差を設定するということに繋がっている。つまり、差別化のためのデザインとは、デザインのユーザーを差別化する営為に他ならない。これは、デザインの理想主義を放棄していることであり、人間、社会、集団に対する同一性や共有性の破壊になっている。存在感、あるいは所有感において恣意的に差異性を仕込むことが差別化ではない。むしろ、差別化という仕組みは、人間を差別し、社会を分析し、集団を分類していることでしかない。この差別化は極めて拝金的な商業主義のためのデザインとなる。 たしかに、商業的な営為を支援するデザインにとって、差別化は、デザインそのものを価値としていくには格好の手法である。が、すでに、ユニバーサルデザインという志向性は、明らかに、差別化を解消する理念あるいは基本的な思想と考えられる。差別化のためにデザインが効用・効果を果たす時代は終わっている。差異性を目論むデザインは、改めて、差別化と差異化を対位させることで同一性・アイデンティティを確立させるデザインとして見えてくるのではないだろうか。