まず私自身も、この「わび」という日本の美意識を定義することはできないことを断っておきたい。生涯かかってデザイナーという立場をもっても不明なままとなるかもしれない。「わび」は、日本人の極めて高潔な美意識されるが、この意味の深遠さについては、私なりの現在認識としての考えを記しておきたい。本来は、落胆したときや失意や精神的なやりきれなさからくる、さびしさやわびしさという精神状況を表す言葉にすぎなかった。ところが、中世になって、茶道、俳諧の美的感性を表す象徴的な用語、かつ深度のある言葉として、「わび・さび」が運用されることになる。以後、日本の美意識を最高位に表現する言葉となり、日本独自の美学性と哲学性を含蓄し、さまざまな定義が運用されていく。私自身は、この「わび・さび」が、特に茶道や華道において、美学性を獲得していった背景には、中世の政治体制への迎合性を確立させる戦略でもあったと理解する。しかし半面では、当時の政治体制への批判を謙虚ながらも支援しつつ、芸術的な行為の精神面の敬虔さを表出したものだったのである。 わたしの認識では、「わびしさ」あるいは「さびしさ」という、人間としての本質的な孤独感は、人間の死生観と密接に繋がっている。すなわち、生きているという現実は、死んでいく過程を受け入れ孤独性を確認することである。それは万物が朽ち果てていくことに等しい。つまり、「わび」とは、絢爛豪華なことよりも、質素であること、簡潔であることを志向する価値観である。そして、清貧の中にこそ、生きているという現実を肯定する根本的な力が宿っているという「美学への肯定観と諦観」があるとする思想性を持つ言葉となっている。それは、「生と死」を真正面から見つめていく勇気であり、現実の体制や政治を批判するという芸術の本質を見出した言葉となっている。今あらためて、日本人デザイナーとして、「わび」というものを、伝統を包含した美学観念とし、日本のデザインの創造性の根底に配置できるかを懸命に突き止めていきたいと考えている。