まず、「前衛=アバンギャルド」が持つ意味の変遷を遡及しておこう。当初はフランスの軍事用語として、最前線での精鋭部隊的な行動を意味していた。そこから、大衆の体制批判がエスカレートすることによる革命的な目的意識という意味へと繋がる。さらに芸術活動の先鋭的な運動を表す言葉となり、思想性と行動性を併せ持つ、体制や制度に反対する活動の大きな動機起因の言葉になった。私は、20世紀初頭のロシア帝政時代の終焉を与えたロシア・アバンギャルドこそ、デザインが資本主義と工業下意識主義によって始動した根本的かつ歴史的な起因だと考えてきた。1899年創刊の美術雑誌『芸術世界』がそれを後押ししていたと思う。西欧資本の流入と日露戦争の敗北によって、1905年の「血の日曜日」を経て、ロシア・アバンギャルドがスタートしたと私はジャーナル的な見方をしている。ロシア・アバンギャルドは、芸術=文化・演劇・絵画・建築などにおける、前衛的かつ統合的な表現事実の積み重ねであった。そして、芸術ジャンルの融合もこのときに起こり、さらに芸術からデザインが引き出されたのである。 ロシア・アバンギャルドは、西欧の印象主義以降のさまざまな潮流を、ロシア中世のイコン表現やアールヌーボーに近づけながら、代表的にはマレーヴィチのシュプレマリズムや、タトリンの構成主義へと昇華することで、芸術の前衛性から「芸術的革命」へと振興した。しかし、ロシア・アバンギャルドの中心人物であったマヤコフスキーは、「街路はわれらの絵筆、広場はわれらのパレット」と煽動したが、結局は「芸術は泣いている」と嘆き、その理想主義は政治体制に押しつぶされていく。レーニン以後、スターリンの一国社会主義は、「社会主義的リアリズム」となり、1934年の芸術文化の統制により、ロシア・アバンギャルドに関わった芸術家から工芸職人までが大粛正され、それまでの前衛は、形式主義もしくはコスモポリティズムとして否定されていく。今日、ソ連共産主義の崩壊によって、再び、ロシア・アバンギャルドの見直しや再考が問われ始めている。私は、特にMITが掘り起こした「第5エコノミズム」の研究こそ、現在のデザインと政治経済へも波及するほどの前衛性があったのではないか、と推測している。しかし、この研究をデザイン史、あるいはデザイン学にしようという動きは日本では皆無であることを残念に思っている。