ロボットという人工物の時代になっている。カレル・チャペックの戯曲「ロボット」で提示された、人間の代わりに労働するという概念の具体物であった。現在では、ロボット技術、あるいはロボット総合工学という分野が確立しているが、私は、このロボット創造工学とその周辺の学際学を「ロボティクス」と名辞したい。現在,ロボットと呼ばれている人工物は、コンピュータ制御、あるいは可動性部品制御=アクチュエータによる剛体的な玩具もしくは、プレイバック性機器にすぎない。にもかかわらず、ロボットは今では情報化時代の”アイドル”となっている。これは、絶対的な機能性=メカノイドと、絶対的な擬人性=ヒューマノイドの象徴的存在への、共同幻想あるいは共同妄想が受け入れられているからかもしれない。J・ボードリヤールの次の2つの指摘はきわめて冷静な評価を与えている。「もしもロボットが機械的な人工補綴という性質をはっきりと示していれば、それは全く安全な状態で魅力を発揮する」。この指摘に適合するのは、玩具あるいは小動物的な外観や動作性を持つヒューマノイド型ロボットである。一方では、「もしもロボットが行動の柔軟さというところにまで人間の分身であれば、それは不安を呼び起こす」という指摘である。すなわち、ロボットの存在は機械的でかつ機能化、人間化されるなかで、安全と安心の人工物の象徴でなければならないということである。人工物の安全と安心が確約されるためには、「形態論」と「身体論」に基づくロボット設計でのデザイン基礎学の構築が緊急課題である。「形態論」とは、安全を優先化させた安心性のデザインであり、「身体論」は、安心を優先させた安全性のデザインでなければならない。したがって、私は改めてヒューマンセンタードデザインやインタラクションデザイン、インターフェースデザインをベースとして、ロボットデザイン基礎学を構築していく必然性と必要性があることを強く指摘しておきたい。制御技術と情報技術だけが引導しているロボットのアイドル化は、今や危険ですらあると批判しておかなければならない。