どちらもフッサールの現象学において用いられる、ギリシャ語の見る=noeoに由来する言葉であり、概念である。ノエシスとは、精神的な知覚作用としての「考える作用」を意味し、その対象としての精神的に知覚されたもの、つまり「考えられたもの」がノエマである。フッサールは、意味を与える作用がノエシスあるいはノエシス的な契機であり、その作用によって構成された意味を統一的に知覚できることをノエマであると定義付けている。ノエマとは具体的な事象ではなく、ノエシスの相関関係、相互関係によって、意識内に構成されるものであり、知覚、あるいは意識の対象面と言うことができる。このノエシスとノエマが結び付く過程を通して、本米それ自身では何の意味もない素材的な要素にさえも、知覚意識からの意味性に気づくことができるという解釈論の原理に辿り着ける。このノエシス・ノエマの関係はデザイン領域の解釈論や創造論では全く語られたことのない概念であり、用語である・デザインする対象、あるいはデザインされた対象が、知覚意識のなかでどのような相互関係にあるかということでは、現在は、アフォーダンス理論や、ギブソニアン的なデザイナーの知覚論に偏向し過ぎていると言わざるを得ない。結局、製品記号論や形態言語論をより進展させていくためには、生活・意識のなかで見失われていると言われている純粋意識論を再度検証する必要があると考える。そのためには、アフォーダンス、セマンティクスをさらに純化していく知覚論と意識論が不可欠である。その論理の概念、あるいは用語として、改めてこの2つの言葉を再提示しておきたい。